長期脳死について

小論文の注意点

  • 相手を低く見積もるな
  • 持論と相性が悪い問題と向き合う
  • ** CF 臓器移植批判に反論する **
  • ** 再移植 **
  • 臓器移植の順位は状態が良い順
    • トリアージ
  • 人間 = 知性
    • 人間は知性があるかどうかが要
    • 新しい死者の発生
    • 植物状態も脳死?
      • => 永久的な知性の消失ではない??

Essay

  • 長期脳死例にふれる
    • => 長期脳死は生きているか死んでいるか?
  • 授業を受けて考えたこと

1

  • Q: 脳死、臓器移植に対する我々のイメージは歪められている?
  • 脳死に対する意見は表面的で粗雑なもの
  • 現在の脳死判定が問題
    • 脳死判定をすると脳死が確定的になってしまう(「竹内基準の6項目」)
    • ちなみに 竹内基準 は古い基準で脳死が新しい概念のとき
      • なので医師が自分の裁量で脳死判定を行うかどうかを判断
        • そこに数値的、科学的な根拠はない
  • P 臓器移植推進派の論理に対する意見
    • 言葉が正しいのか
    • 「脳不全」=「脳死」政治性を帯びている

2

  • 脳死のプロセス(発症 -> 治療 -> 蘇生限界点 -> 脳死判定)
  • 低体温療法の衝撃
  • 脳死は作られている?
  • 日大板橋病院では脳蘇生限界点が低い
    • ギリギリまで諦めない
    • が、病院によって脳死判定を行う判断がまちまち
      • おかしい
  • それに、脳死患者より臓器提供待機患者の方を優先している傾向
    • 瀕死の命の前に差があって良いのか?
  • 低体温療法
    • 脳への障害は抑制されるが、内臓への負担が大きい
    • 日本ではあまり普及していない?

3

  • 長期脳死が存在する
    • 通常脳死は数日で心肺も停止するが
    • ex. 1年9ヶ月脳死状態だった子供がいる
  • 「子供の脳死と大人の脳死は違う」?
    • そもそも医学の不十分さ
    • 脳死 = 脳幹死の状態で心臓が動くのは解明されていない
    • 脳死状態でも無意識的なインプットは存在している
  • 脳死状態判定にも脆弱性がある?

4 まとめ

  • 脳死という概念は少なくとも日本では臓器移植ドナー提供者数増加のための政治的、社会的な含意が感じられる
  • 脳死という概念が浸透、固定化されて居ない以上変動する、人々の意思に影響される
  • 脳死に対する知識が少ない
  • notice 自分もこの講義を受けるまではなんとなくしか知らなかった
  • 脳死を人の死にするか?
    • 現段階では非常に難しい議論
    • 脳死という概念の歴史が浅い
    • 脳死判定、脳死に対する知見、研究がそれほど進歩していない
    • ex. 長期脳死という現実もある
    • 医学の限界, 過渡期
  • 生への執着 -> 死が怖い -> 存在、意識全てがなくなるのが怖い -> 永遠の課題 -> 意識こそが人間のすべて
  • ハーバード基準, エンゲルハートのパーソン論 は冷酷だが極めて客観的
  • 総括すると、現在の脳死は脳に対する解明が十分にされていない以上黎明
    • あくまで本人の意思を尊重するが

小論文(1280)

「脳死」という概念は20世紀に入ってから人工呼吸器の発展により登場した新しい概念で、脳死に対する知識も世間一般に浸透、固定化されていないと思われる。

かくいう自分もこの講義を受けるまでは脳の機能が消失した状態という程度の認識しかもっていなかった。

このように概念が完全に世間に浸透、固定化されていない状態では特定の個人や団体の意思によって意図をもって作為的に影響を与えてしまうことができると考える。

実際、日本でも脳死を人間の死と定義し、脳死患者を臓器提供のドナーにという意図的、政治的な意図が含まれているように多少なりとも感じられた。

では、本当に脳死を「人間の死」と定義してしまっていいのだろうか?

これは、非常に重大かつ難しい議論である。

上にも述べたとおり、脳死という概念自体比較的新しい概念であり、人間の脳の複雑さも伴って、現段階では脳死や脳死判定などに対する研究が十分進歩しておらず、知見が多くないのではないかと考える。

現状の脳死に関する問題点を2つ挙げる。

1つめは脳死判定に関する問題で、現在の判定方法は完全ではなく、脆弱性が存在しているのではないかと考えられる。現在日本では厚生省で定められている竹内基準によって脳死の判定を行うが、その判定項目の中に無呼吸テスト、つまり人工呼吸器を外した状態で自発呼吸が行われるかどうかという項目があり、事実上このテストを行うことで、仮に脳蘇生がまだ可能であったとしても脳死状態になってしまう。そのため、各病院の医師は脳死判定を行う前に、脳死判定を行うかどうかという判断を各病院の医師の裁量で判断しなければならない。そのため、病院によって脳死判定を行うボーダーラインとなる脳蘇生限界点の基準が異なってしまうという現状が存在している。

これは本来あってはならないことではないかと考える。なぜなら、ある意味病院によって、命の重さに差がついてしまっているという事になってしまうからである。

2つめは長期脳死が存在するという現実である。通常は脳死は状態発症後数日で心肺も停止し、心臓死に至るが、講義でも取り上げられたように「子供の脳死と大人の脳死は違う」とされ、稀に脳死状態のまま何年も生き続ける例が存在する。髪も爪も伸びるのに死んでいると言えるのか、この例外的と言える長期脳死についても考えるべき議題である。

以上のように、脳死については絶対的な基準が確定されておらず、それ故いくつもの例外や問題が存在している。

しかし、これらの問題はすべて現状の医学の限界が招いたものであり、無責任ではあるが現状ではどうしても発生してしまう問題なのではないかと考える。

一方、アメリカではエンゲルハートのパーソン論に則った「ハーバード基準」なるものが存在し、それによると、「生命とは知性であり、知性の永遠的喪失こそ人間の死である」とされている。つまり、脳死は意識が不可逆的に回復しない以上死と同義であるとされている。この基準は心臓さえ動いていれば生きているという意見に対し真っ向から対立する冷徹な生に対する見方であるが、説得性があり、客観的な考え方であると考える。

人間誰しも「死への恐怖」は存在すると思われる。それは自分という存在、意識すべてが永久に喪失することに対しての恐怖であって、意識がある状態を持って生きていると考えているからであると考えている。つまり、意識を失っている間は生きているとは言えず、永久に意識が回復しないということはすなわち死と同義であると考える。この意見は極めて現実主義的であるが、本質的な考えではないかと考える。

よって今我々ができることは、自分の意識が明確なうちにもし脳死状態になったときなどに臓器提供をするかどうかという自分の意思を明確に提示することではないかと考えた。